結局ぜんぶ推しのせい

いろんなことが起きている

究極の両思い「スロウハイツの神様」

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2019年3月30日

スロウハイツの神様(再演)@サンシャイン劇場

 

しばらく観劇ログを書いてなかったので、何をどう書いていたのか微妙に思い出せません。もうすぐ春ですね。いかがお過ごしですか。TDCに一週間缶詰になってみたり、Studio Lifeさんを観たり、渋谷の真ん中でミュージカルショーを浴びたり、いろいろありました。このいろいろはまた改めて。

 

 

 

http://caramelbox.com/stage/slowheights-no-kamisama-2019/

キャラメルボックスを観るのは今回で3回目。スロウハイツの神様。少年社中トゥーランドットのときもそうだったけど、演劇や音楽や小説…何か表現に助けられたことがある人に刺さる物語。これは究極の両想い。

 

好きな表現がいつも側にいる。そしてそのことに救われる。売れっ子になり始めた脚本家、赤羽環(原田樹里)と若者のカリスマ作家のチヨダコーキ(大内厚雄)の10年以上に渡る「両想い」の物語。*1

キャラメルボックスさんは原作忠実な面が強いので、あらすじはスロウハイツの神様の方を探していただければと思います。

 

「僕が書いたものが、そこまでその人に影響を与えたことを、ある意味では光栄に思います。」

物語の冒頭、ある事件に対して、コーキはこんなコメントを残し、世間からバッシングを受けた。この言葉、モノを創る人にとっては本当に正直な言葉であると感じた。創ることの方向性がそれぞれ違うことを重々承知で、それでも、誰かに影響を与えることを一つのクリエイターの成功体験と感じてしまうのなら。

 

この事件から3年間、コーキは文壇を降りることになる。

 

 スロウハイツは、脚本家の環が「仕事の繋がりで」手に入れた西武池袋線沿いの小さな旅館跡地だった。一人で住むには広すぎるが、たくさんでは手狭。環が信頼したクリエイターの卵たちと共同生活をしていた。漫画家の卵狩野壮太(玉置玲央)、映画会社で監督を目指す長野正義(松村泰一郎)、正義の恋人で、画家の卵の森永すみれ(小林春世)、後に越してくるロリータ服で全身を固めた加賀美莉々亜(木村玲衣)。そして、小説家のチヨダコーキ。さながらトキワ荘だ。 

 

舞台中央には、彼らが暮らすスロウハイツのリビングが一段上がった形で設置され、黒板や貼られたイラストから彼らの生活が浮かび上がる。個人の部屋を持ちながらも、気がつくと集まってしまう、賑やかにこのリビングで過ごす様子は、学校の昼休みのようだった。個々人の部屋や外の様子は上下に振られ、ピンスポットと椅子や机で表し、暗転過多にならないようにされていて好感が持てた。キャラメルボックス特有の、歌詞ありの曲とセリフの同時進行は今回も健在。知っている曲があるわけではなかったが、歌詞の言葉をそっと引用するように舞台上に差し込み、台詞は台詞として聴かせる。力点が定まっているからできる技だなあとキャラメルボックス3回目にして技術力を感じた。

 

何かを応援したことのある人にとって、環の物語は一度は憧れた話なのかもしれない。憧れの作り手と同じ土俵に立ち、相手とともにある未来。

「10代のとき、コウちゃんは神様だった。20代では親友になれるかもしれない。」

作中に何度かでてくるこの環の言葉が忘れられない。本当にすごいのは環自身だ。どんな逆境にも負けず、自分の弱さとコウちゃんを守るためにどこまでも虚勢を張り、どこまでも突っ走ることができる。強い赤羽環でいることができる。徹頭徹尾コウちゃんが好きだから。 「10代で卒業する」と世間では言われているチヨダコーキの作品を今の自分が愛するために、誰かに愛し続けられるために、環は走り続ける。原作は未読なのだが、このコーキと環の両思いに重点をおいた物語の構成は非常に観やすかった。原田さんの爽やかな声が、劇中でコウちゃん!と呼びかける度に嬉しくなったり、悲しくなったりした。しかし、あまりにも向こう見ずに突っ走る環には観客の私さえ「もうお前は十分頑張ってるよ、大丈夫だよ。」と言ってあげたくなる。

 

そんな時環に手を差し伸べるのは、スロウハイツの住人たちだった。環がコウちゃんを守りたい一心で編集部と交わした契約は、あることをきっかけにスロウハイツの住民たちに知れ渡る。漫画家、映画監督、画家の卵、そしてコウちゃん。コウちゃんを助けたい、守らなきゃ、と必死になる一方で環も彼らに守られている。ちゃんと愛されている。このシーンで優しい関係性が前面に現れていた。原稿が出来上がった直後、部屋に入ってくる環は「みんなの勝ちよ。」とだけ話すのだが、優しい顔をしていたのが印象的だった。環だって愛されているのだ。安心した。

 

「作中に出てくるリング、環のことなんですよ。」

「コウちゃんそれは嘘。だってその作品、私が高校生の時から連載してるじゃない。まだ出会ってないもの。」

「ばれちゃいましたか。でも、出会ってからは本当に環のことだと思って書いていますよ。」 

 

 チヨダコーキが文壇に戻ってきた大きなきっかけとして、ある投書の存在があった。地方紙に掲載された10代の女の子からの度重なるエールにコーキは背中を大きく押されていた。しかし、彼女とコーキは出会うことができなかった。出会うことは、できなかった。出会わずにコーキは彼女を支えていた。コーキの不器用すぎる恩返しの描写は笑ってしまうのだけれども、2回目の「お久しぶりです。」でどういうわけか泣いてしまいそうになる。この2人は、ずっと不器用なほどに両思いだ。

 

作中で強い女である環が一度だけ今にも泣きださん勢いで声を荒げるシーンがある。女子学生の自殺と彼女のカバンから本が一冊出てきた、という情報でコーキに詰め寄るところだ。あの事件の時と一緒になってしまう、コウちゃんが悪者になるぐらいなら一緒になって逃げよう、と彼に懇願する。あの事件は、環にとっても間違いなくトラウマになっていた。しかし、コーキはそんな環の気持ちを受け止めながら、逃げませんと告げる。場合によっては責任を取る、と。環はそんな彼を呆然と見つめていた。あの事件を乗り越え、強くなったコウちゃんと、トラウマでしかない自分の距離を、環ははっきり感じてしまったように見えた。

 

着地点が見えなくなってしまったのだが、環とコーキの両思いの話としてこの作品を見た時に、一心という言葉に尽きる。一心に好きになり、応援し、追いかけ、良き友となる。好きだけど、一生の友となる道を選んだ環の強さは悲しいが美しい。事件を乗り越え、「10代で卒業する」と揶揄されながらも書き続けるコーキは、いつまでも環にとってどこかで神様なのだ。この2人のような創り手がこれからも生まれ続け、そして活躍してくれることを私は表現好きとして願ってやまない。スロウハイツで生活する皆がこの先成功するとは限らない。卵から孵っても鶏になれるとは限らない。でも、応援し合い、一心に表現に向き合い、才能を認め、「自分の力で世界につながる」道を選び続ける彼らはひたすら眩しかった。そして劇中の彼らの言葉は、日々作り出される音楽や漫画や映画や演劇、触れることができる様々な表現へのリスペクトと感謝が込められていた。

 

Amazonで原作を買って、これから読む。久々の上下巻。楽しみ。

*1:両想い、と書くのはこれが決して恋愛の範疇だけでないことをなんとか言語化したいから。