結局ぜんぶ推しのせい

いろんなことが起きている

美少年は、瞬間美。

年の瀬に柿喰う客の『美少年』を観た。緊急公演と銘打たれた10:00開演。観終わって、アフタートークを聞いて、ごはん…それでも12:30…。ほぼ朝活である。朝活終わりにこんな観劇記録を書いてみた。

 

美は少年に宿る。美少年の寿命は、美少女よりも短い。美少年の終わり、例えば、声変わりであり、第二次性徴期であり、環境の変化でもある。小学生のとき可愛かった「男の子」が中学に入ると部活やらなんやらの影響をモロに受けて普通の中学生になっていく図はどこの地域でも見られると思うし、身に覚えがある。例えば美少年が美青年になり、美中年になるのは相当稀なケース。もちろんこの見解は私の偏見を多めに含む。

一方美少女は、美少女のまま美女になりうるし、そのまま美魔女になったりする。だからこそ、歴史上の権力者は美少年の瞬間美を愛した。芸術でモチーフとされるのはだいたい美少年だ。神話でも出てくるのも【美少年】。短い美の寿命を多くの大人が必死に求めたことは明白だ。

 

こう美少年の歴史的、感覚的な存在を述べて言っても、抑、美しさは人間を狂わせる。ミュージカルでもよく出てくる。美しさに狂わされる話。

 

柿喰う客の本公演『美少年』は、美しさとナルシシズム、現在の芸術界隈(ならびに美大生)への強烈な偏見とアンチテーゼ、劇団演劇の身体性をめちゃめちゃに盛り込み、そのすべてを「本公演」の名の下、ギチギチにパッキングして、役者4人それぞれの肩に乗せていた。これは少なからず苦行だ。早朝に苦行を観たのかもしれない。

 柿喰う客の劇団員がつくる柿喰う客の芝居が好きだ。あの身体性とあのセリフの殴り合いは、柿喰う客じゃないと観れない。だから、朝活万歳で観に行く。劇団システムで作られる圧倒的な癖を持った芝居のカタチ。平成の中でも絶対に死んでない。昭和の劇団と有り様を変えたように見えるかもしれないけれど、ちゃんと平成を駆け抜けている。次の時代も駆け抜ける。

 

3重構造の『美少年』という芝居。

⑴新作『美少年』に美少年役ができる人がいない劇団

「柿喰う客の新作『美少年』にふさわしい美少年役を探すべくオーディションを開催した。」「美少年はいたか!」「美少年はいませんでした!ブ少年ならいました!」このやり取りが数回ある。彼らが第一フィルターとして広げるのは、「劇団の新作公演を美少年と銘打ちながら、舞台上には明確な【美少年】が存在しておらず、美少年を取り巻く人々を演じて、なんとか60分の芝居をやりきらなければいけない劇団員」の姿である。これが最初に提示されるので、役者たちのメタが観客を沸かせた。そして、時として観客を現実へ引き戻す。劇世界へ没入させないフィルターとして稼働していた。

 

⑵昭和の終わり、小学3年生「ひまり」を囲む世界

劇中で語られるひまりは、圧倒的な美少年だ。立ってるだけで羨望の眼差しを受け、赤い羽根共同募金は集まってくる。

「彼を見て」「彼を美しい以外で表現して」「美しい!」「美しい以外で表現して!」「う、美しい!」「読む、書く、喋るだけに特化した国語教育の限界だ!」

このレイヤーではひまりが言葉にできないほど美しい存在という言説が永遠に続く。家庭訪問する先生とひまりの父親を名乗る若い男、ひまりのクラスの同窓会長と同級生の女の4人を中心にひまりがいかに美しく、寵愛されていたか。昭和最後の未解決事件「ひまりちゃん誘拐事件」についてや、現在のひまりの状態を知っている者がいないことが明らかにされる。事件は起きたがひまりは帰ってきていた。帰ってきて生活しているはずなのに、先生は言う「こいつは、ひまりちゃんではない。」そして、現在のひまりを知るものはいない。

ひまりの気持ちを無視して、ひまりの周辺の人たちが美少年に過剰反応し、暴走していく様を高速セリフ回しが際立たせる。ストーキングする先生はめちゃくちゃ気持ち悪いし、ひまりに対する目線は異様だ。

 

⑶平成の終わり、39歳の同級生と「ひまり」

 同窓会長は、同窓会を開くことを目的にひまりを探す。同級生は画家になっていた。芸術で生活が立てられるほどに彼は成功している。ひまりが生きていた場所には、今芸大が存在している。そこでは、芸術の名を借りた生徒への強姦事件や狂乱的なゼミ活動が続いていた。狂乱的なゼミの教授は青山で個展を開く。30年前に製作された【美少年】の石膏像。30年間、ゼミ生ですら見ることができない、眠っていた作品だった。石膏像をメインにした個展は何者かによる中止の脅迫を受ける。脅迫したのは誰で、開催はいかに、というレイヤー。ここのレイヤーでは強姦や男尊女卑、芸術で起きてしまう倫理観の特別ルール、癒着や権威に溺れた芸術家の怠惰。高速の言葉の中であぶり出される。

“Fair is foul, and foul is fair.”

(Act I, Scene I)

『美少年』3つのレイヤーで、強弱はあるが共通するのはマクベスのこの言葉だ。ひまり不在で語られる美少年は、周りの大人(主に担任)の執着が気持ち悪く表現されているし、ひまりを探している時にぶつかる芸術界隈への偏見も意図してかなり気持ち悪い書き方をされている。「芸術」を持ってすれば、どんなに非人道的なこともなんだか納得させてしまう権威、を、見て、「ああこういう人いるよね。」ってなってしまう観客。そして、「芸術」という何か得体のしれないものが持っている異様なフィルター。これが医大の話だったら?モチーフを探せ!と叫ぶ教授がもし、別の教授だったら?カバの糞尿を浴びせられた少女を見て、思いついた彼を気持ち悪いと一瞥して終わるのではないか。芸術だから、気持ち悪さに価値を見出しすぎているのではないか。飛躍すれば、倫理観の特別ルールを適応していないか。作者の偏見も大いに含まれるが、歪んだ形を一つ示している。

 

30年間封印されていた石膏像は、かつてのひまりを模ったものだった。そして、彼をかつて誘拐したのは教授だった。事件の時効を待つために30年封印されていたのだった。帰ってきたひまりに担任が「これはひまりちゃんではない。お前は誰だ!」と詰め寄ったのは、「美少年」をその石膏像に閉じ込めてしまったから。

公開中止の脅迫をしたのはひまりだった。奪われたのは、ひまり自身ではなく、美少年としてのひまりだった。小学生だったひまりもそのことに気が付いていた。動物園(美大生がモチーフを探していた場所だ)で、動物たちに意識を奪われる同級生に、どうしてこっちを向いてくれないんだと嘆き、絶望する。ひまりはいつまで経っても「美少年だった自分」の檻から逃げられない。担任は、いつまでも「美少年ひまり」を追い求める。若いひまりパパは、30年後のひまり自身だったのだ。幻想の美少年を求め、たった2人で昭和を続けていた。

結局、公開は行われる。ゼミ生は壁に穴を開ける。これこそ芸術だと言わんばかりの勢いで、ドリルを片手に、青山のギャラリーに26個穴を開けた。ここも笑える。たった2人で続けてきた昭和の魔法は、ここで解けてしまう。担任は「あの日のひまり」に出会えてしまった。

 

ひまり父、ひまりを演じていた加藤ひろたかさん。彼の顔がビビットな照明に照らされていて、そのことが妙に印象的に残っている。この人がえぐいことをしているとなぜかエグさが際立つ。そこが素敵だ。

 

最後には演じた人物全員について言及されるが、人数の多さに驚いてほしい。そこには4人しかいない。ああ今回もめっちゃ気持ち悪い!でもそこが柿喰う客で好きだ。全編を通じてつかこうへい芝居の空気を感じた。つか芝居を見たときも気持ち悪い!と思って帰る。どうでもいいが、中屋敷版飛龍伝が世界で一番好きだ。

綺麗は汚い、汚いは綺麗。 「美少年」というアイデンティティから30年抜け出せなかったひまりの痛みを、笑わないでほしい。

 

美少年は瞬間美。

オタクとしてのスタンス2019ver.

2018年が終わった。

 

2018年の大晦日は刀剣男士が紅白に出ていた。刀剣乱舞を歌った後にAqoursが未来を変えたくなったよ〜と歌っているのを見て思わず微笑んでしまった。年明けのCDTVはまさかの選曲。2部曲がついに地上波で流れた。観る人ですら”Don't think,feel"を迫られる2部のあの曲。地上波で流してよかったのだろうか。

この夜、サブカルチャーに括られるであろう舞台のコンテンツが、メインカルチャーの中のメインカルチャーに乗っけられた瞬間を目撃した。彼らの扱いはいっときのイロモノではなかった。極端に秀でた技術による注目でもなかった。今、若者を中心に人気のコンテンツの1つだった。ミュージカル刀剣乱舞における【刀剣男士】は総合的で独立したコンテンツだと感じている。元のゲームから完全に分離し、独自の路線を突っ走ってる印象を受けるのだ。

この放送を通じて、日々自分が熱狂しているものは、世間的にさして人気のあるものではないことを悟った。あの場は期待されているほどコンテンツに寄り添ってくれる優しい世界でもなかった。でも想像していたより恥ずかしくはなかった。「これは舞台ですね」の一言も、肯定の言葉に聞こえた。大元は舞台パフォーマンスだ。

TVは好きな人だけが取捨選択をして情報をキャッチできるメディアではない。だからこそ、舞台発信で大衆メディアに耐え得ると判断された【コンテンツ・刀剣男士】が生まれたことが、今後の2.5次元を考える上で大きな点になる。今までの2.5次元舞台とは向かっている方向が違う【コンテンツ・刀剣男士】はこれから何を起こし、何を残すのだろうか。

 

1年に1回ぐらい見直しスタンス記事を書いておくといいかもしれないと思って書いた。前置きが重いのは、紅白のせい。

 

▷基本情報

20代社会人女性。仕事がゆるいのでお金があんまりない。関東にいる。諸般の事情で一人暮らしは当分できそうにない。諦めてパラサイトシングルを満喫している。

 

▷推しについて

ご贔屓さんは紆余曲折で8年目。歴だけ妙に長くなってしまった。

ずっとずっと芝居が一番好き。歌ってても踊ってても、根本が芝居だから大好き。丁寧さが伝わってきて、表情の一つ一つに心動かされる。「芝居が好きだから、あなたのいる芝居にいく。」という総合的なスタンスを作ってくれた人。少しづつではあるけど、ちゃんとご贔屓さんが目指している「役者」の階段を上っているのをわかる。変化していく様は地味だけど、着実。こう生きていけたら素敵だろう。私も一緒に居続けられるように、彼のファンとして素晴らしい人間でありたい。頑張ろうと日々過ごしている。長い時間見つめていたから、理解できない部分も多々出てきているけど、総じて穏やかだ。ごまかしはない。今の夢は、いつかもっと大人になった時「私、この人のお芝居が大好きだったんだ。」って家族で観劇をすること。これからも私にとって史上最強で最高の役者でいてほしい。絶対に敵わない人でいてほしい。そして、ファンのことなんか見えてないよって顔して幸せで在続けてほしい。これからも多分ずっとこんな感じ。

 

好きさん。中学生の頃から出入りを繰り返す。リアコしたり茶の間したりと情緒が激しかった。殺陣が強烈に早い。芝居をするということは魂を削ることだ、と背中でいつも示している。時折、発言から揶揄されることも確かにあるけれど、不用意に他人を傷つけるようなことは絶対に言わない。とにかく真摯だ。苦労も挫折もたくさんしている。そのことも、もう隠さない。笑って話している。そこがかっこいい。好きさんのおかげで「信頼しているから、観たい。」という新たなフックができた。人としてだいすき。信頼している。「ファンを絶対悲しませない」という一点において、この人より信用できる人を私は知らない。

いろんな「当たり前」が全然当たり前じゃないことを、まだまだクソガキだった私に教えてくれた。次の現場があることは全然当たり前じゃない、好きさんに出会わなかったらきっと勘違いしていた。誰よりも絶対に幸せになってほしい。好きさんに対しては都合いいファンをしているのを自覚しているが、もう性格上無理なので適当にやらせていただいてる。許してくれてありがとうの気持ちをできるだけたくさん表すことしか、もう、私に、できることは、ない。(ごめん)

 

推しさんと出会ったのは4年前の夏。芝居よりも先に、言葉を見てリスペクトするようになった。役への考察、アプローチの幅広さ、歴史や戯曲への知識。普段のウェ〜イな雰囲気と違って、びっくりするぐらい理知的だった。そして、それを惜しみなく観客へ提供しようと努めていた。正直色々荒削りだったけど、そんなところも含めて、表現者としての面白かった。芝居も目に入る一つ一つが強くてクラクラした。「この人よくわからないけれど、めちゃめちゃすげえ。」これが私の最初の感想。「演劇をきちんと見ること、知ること、考えること。そして好きでいること。」今見る上で大事にしているこだわりは推しさんがくれた。

こんな大口を叩いても、実は1年ほど忙しくて推しさんのお芝居を観に行けてなかった。そしたら、急に売れた。躊躇いの気持ちが大きくて、チケ取りもできなかった。正直苦手なジャンル。察した友人が引き摺り出すように連れて行ってくれた。「さよならするなら全部ちゃんと見届けてさよならしなさい!一瞬でも推しだったんでしょ!」グズつく私に彼女が投げたこの言葉が忘れられない。

見届けた。すごかった。目眩がするような存在感。あの日の面白お兄さんだった推しさんは、あの日よりひと回りもふた回りも大きくて、みんなの推しさんになった。

そして、今、私はまた推しさんのところにいる。やり方に納得がいかないこともないわけじゃない。でも、明確な夢を描く推しさんに大きな声で「推しさんの夢は素敵だ!!頑張れ!!」って言うことぐらいはできるかな、と思っている。色々あるけど人間味が強く面白い推しさんだ。

 

現場頻度としては、推しさん≧ご贔屓さんと好きさん。今は輝きの強い推しさんを応援している時間が長い。でもあんまり変わらない。

 

▷現場に行く頻度

1現場1回は最低ライン。でも明らかに合わないものは干す。ご贔屓さんと推しさんに関しては、特定ジャンルの出演が決まれば多ステをする。ファンサ目的ではなく、あ〜〜〜好き〜〜〜!って思える推しさんやご贔屓さんはそのジャンルで拝見できることが多いから。好きさんは出演作も多いから結構選ぶ。小劇場が好き。推しだから観たいよりも、芝居として期待できるものを観たいが勝つ。特定ジャンルの時は遠征もする。普段はしない。ノリでしたりするけど、普段はしない。(2回目)

 

▷グッツを買う基準

現場至上主義なので写真ぐらいしか買いませんごめんなさい。トレブロアクキー缶バッチ、出ることがそもそも少ない。レートが高くないので、ふんわり集める。本当に大したことない。

 

▷雑誌を買う基準

揃って雑誌にほぼ出ない。解散。

好きさんが若手俳優の雑誌に出た時は舞い上がって3冊ぐらい買った。も〜〜〜〜本当に嬉しかった!!こういう一つ一つに喜べるようになったのは、好きさんの教育が素晴らしいおかげだ。

 

▷映像を買う基準

ほんっとに素晴らしくないと映像まで食指が動かない。推しさん以外の舞台は映像化されないことが多すぎて、円盤が出る時点で感動します。しばらく買いたくても買えない状態が続いていたので、推しさんを再開してからはすんなり円盤が出ることに感動している。そもそも論、映像化に出ない人ばっかり推してた。

 

▷プレゼント・手紙について

初日と千秋楽に1回ずつぐらい。面白かった〜、こんなシーンはこういう見方をしたよ〜、ここの表現が素敵だった〜なんてアンケートみたいなことをちまちま書く。通称レポート。友達に「そのレポートもらう相手がかわいそう」と言われたことがある。観てるところが細かすぎるらしい。推し各位、いつも変なものを押し付けてごめんなさい。言いたいだけだろうな、と思っていただけたら十分です。

 

プレゼントは、時々たまに、ロングランを狙っての消耗品が多い。

ご贔屓さんはファンのプレを絶対に使わない。使わないなら入れない。以上。

 

▷同担について

ご贔屓さんは昔からの付き合いがある同担さんが多く、いつも可愛がってもらっているし、可愛がってる年下ちゃんも多くて大好きだ。みんな仲良くて、いろんなことに詳しい素敵な友人たち。好きさんと推しさんは、マイペースに推してるので、現場で仲良くなれたら仲良くなりたいし、機会がなければ仕方ないか〜と思っている。あえて探したりはしない。

推しさんはちょっと荒れちゃったこともあったので、しばらくは1人でもいいかなぁ、なんて。

ツイッターのタグとかはやらないが眺めるのは好き。ふわふわリアコ勢も、なんかいい。ブームの時に若いっていいなぁ、JKの時に今みたいな2.5が肯定される世界だったら、楽しかっただろうなぁ。と思いながら18↓を眺めるのも、好き。

 

 

3人に対するラブレターになってしまった。

推し各位今年も大好きです。

 

 

 

 

2018年のだいすきと観劇の記録④

冬です。推し以外のところに居ました。

 

 

11月 good moring №5『祝杯ハイウェイ』 『The silver tassie銀杯』『はたらく細胞

gmnは去年の「豪雪」から観てる。鳥越さんファンの友達にお誘いいただきました。

祝杯ハイウェ〜〜〜イ!!の曲が今も頭から離れない。歌いたくなる。去年観た時はプロレス…って感想だったけど、今年も肉弾戦…これがプロレス…って感じ。笑

一瞬でも怯んだら全て恥ずかしくなるし、飲み込まれる。下北沢で演劇を見てると時々ああいう化け物を見かけるけれど、化け物だらけの演劇。友達の推しさんが出てると、よく戦ってるなぁ…頑張れ…と応援したくなる。50円で売ってた応援グッツがあまりにも面白すぎて買ってしまった。高性能おもちゃの車に乗って舞台上を駆け抜ける演者さんたちをに応援グッツの旗を振っているとなんだか愉快な気分になれる。演者さんだってめちゃくちゃ技術があるのか、気合いで押してるのかよくわからない人もいるけれど、一瞬一瞬が全力だから、爆発して、面白い。意味はわからないけどどうしょうもない人間にゲラゲラ笑いたい時はgmnをお勧めしたい。私はもうすでに来年が楽しみだ。

 

友達から推しさんの話を色々と聞いて、素敵な思い出が増えた1年だった!と締めてもらえてこっちも幸せな気持ちになった。幸せそうなオタクを見てるとこっちも幸せになる。友人の恋話を聞いて楽しいのもこの理論な気がする。恋話の亜種。

 

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